社殿配置の特徴

小松天満宮の建造物・工作物配置は、小松城と特定日の日の出と月次連歌によって特徴づけられます。
 1a)当社社殿は、小松城の東北方向(鬼門の方角とよばれる)に立地し、さらに、創健者の加賀藩3代前田利常公の在城した3つのお城、小松城本丸と金沢城本丸と守山城本丸、を結ぶ線上に立地しています。
 1b)全国的に珍しいといわれる当社の十五重石塔(相輪を持たない)の真南に小松城の水口が存在していました。利常公に仕えた木下順庵が1666年時点で、第5代藩主綱紀卿が日本最古の造園書「作庭記」を保持されていることを知人に伝えています(林屋辰三郎・校注『作庭記』の解題参照)。1666年とは利常公没後8年後のことですから、造作を数多くされた利常公がもともと所持していたものと考えられます。木下順庵は公に仕え、また、松永尺五の弟子であり、第4代藩主光高卿の学問の師を務めた尺五から、利常公は小松城において「経」の講義を受けています。これらを考え合わせますと、平成という元号のもととなった「地平天成 六府三事允治」の考えであります「よき政治の恩恵をうけて人々が満ち足りた生活を楽しんでいる」の実現を期して、十五重石塔と城の水口の位置関係を定めたことが覗われます。ちなみに、当社創建後まもなくの明暦3年4月に、利常公は将軍家綱に対して改作法成就を報告しています。改作法は、幕藩・農本体制下での持続可能な藩経済確立をめざして施行された農政・税制・祿制改革です。 
 2a)冬至の日の出の日の光が神門を通過して本殿に達するように、神門と本殿が配置されています。
 2b)当社の創建年月日は明暦3年(1657)2月25日(旧暦)、グレゴリオ太陽暦に直すと、4月8日になりますが、この時の日の出の光が東方からの参道に沿って本殿に向かうように、参道が設計されています。
 3)御祭神である菅原道真公は、無実の罪にて流された太宰府での最晩年、延喜2年晩秋から延喜3年2月25日にお亡くなりになられる間、無実の罪を天に訴える「燈滅2絶」や望郷の思いを詠われた「?居春雪」などの漢詩を残されています。ご祭神の最晩年の期間(冬至から2月25日)の思いをお慰めすべく、創健者は、2a)と2b)の二つの日の出線の間に、別当居住の梅林院を建立し、連歌の間にて月次連歌を開催するように命じられました。
 以上に紹介しました創建時の建造物・工作物のうち、梅林院以外は創建当時のままに保存継承されてきています。梅林院における月次連歌は明治維新後に廃止され、梅林院は茶室に改造され、茶道を嗜まれた利常公を偲び、大正時代初期から昭和50年代まで茶道グループ「能和会」によって月次茶会が開催されました。

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